狐の高い鳴き声が響く午前4時。
蓋のないヤカンに沸かしたハーブティーを一口飲んで、弥栄窯の1日が始まります。
おはようございます。PARANOMADデザイナー/自他共に認めるブレッドギーク(パンおたく)の原田美帆です。
「農家パン・弥栄窯」part2。工房に広がるパンの世界をご案内します。
ケヤキ製の捏ね桶に小麦粉で堤防を作り、塩、パン種、そして水を注ぐ。太田光軌さんの両手は水の間をゆらゆらと泳いで、少しずつ小麦粉の堤防を崩していきます。水はゆるい液体になり、その間を手のひらが泳ぎ、小麦粉は少しづつ液体に飲み込まれ、やがて一つの固まりになって、「カンパーニュ(田舎パン)」の仕込みが完了。
力いっぱい捏ねたり、打ちつけたりすることはありません。「量がすごいから、疲れないようにやらないとしんどい。自重だけで捏ねる効果もあります」。
次は「ブリオッシュ・ペイザンヌ(農家のブリオッシュ)」。小麦粉の堤防に、白く滑らかな液体が注がれます。白熱球に照らされて艶やかに光るのは地元ミルク工房そらのジャージー牛乳。光軌さんの両手が液体の中を泳ぐと、生地が波打ってこたえます。
続いて「コンプレ・ビオ(全粒粉パン)」。ブレッドギーク(パンおたく)じゃなくてもずっと眺めていられる仕込み風景。工房には小麦と酵母の甘い香りが満ちて、深呼吸をするたびにパンを食べているような気分に。
ぷくぷくと呼吸するパン種
来見谷(くるみだに)が朝靄に包まれるころ、最後に仕込むのは「セーグル・エ・リ(ライ麦と玄米のパン)」。
みんなからエリちゃんと呼ばれているグルテンフリーのパンは「粉比で1%加えた蜂蜜がまるで熟女のような妖艶さを纏って」います。滑らかな口どけの奥に、みんなを虜にするハニートラップを仕掛ける20代。ご自身でも恐ろしいと公言されていますが、本当に恐ろしいことです。
セーグル・エ・リのパン種はライ麦
一次発酵は年間を通じて4時間前後。パンの種類によって差はありますが、わずか数時間で発酵が完了するのは窯の余熱が室温を暖かく保つから。「オーバーナイト(一晩)発酵させると、発酵の確認も難しくなるし、この時間で仕込む方が味が安定する」。「弥栄窯のパンは味がブレない」と言われる秘密がここにありました。
ブリオッシュに練り込まれる発酵バター
発酵の様子を見て、窯に近づけたり離したり。生地を置いた捏ね桶やパン棚はキャスターで自在に動きます。仕込み、整形、焼成と工程が進むと工房内のフォーメーションも変化。窓から差し込む光に照らされて、舞台の転換を見ているようです。
合間にいただく朝食はスライスしたパンとハーブティ。古くなったものは窯の余熱で「窯チン」すればサクサクに。この余熱でクッキーを焼いたり、近所の方が野菜を乾かしたり。大きな窯の大きな熱は、大きく分かち合われています。
発酵完了を見極めると、成形へと進みます。「赤ちゃんみたいで気持ちいい」柔らかい生地を数回折りたたんで、手のひら全体で包み込んで台の上を回転させながら丸めて。
いよいよ窯に着火です。薪と杉葉が積み上げられた焚口にマッチを近づけると、一瞬で炎が上がりました。炎と気流が窯の内部空間にこだまし、うごめくような音が反響しています。地鳴りにも聞こえる重低音、薪のはぜる音、気流の唸り声。窯は音楽を奏でながら、徐々にその温度を上げていきます。
ときどき「グラ」と呼ぶ鋳物製の道具を使い、炎を窯の全方向に当てる。薪をくべる時、ダンパーを開ける時、音楽はいよいよ大きくなって発酵という眠りからパンを起こしていきます。
窯入れは静寂と緊張の時間。炎の形跡が見えているかのように迷いなくパンを詰めていく光軌さん。無駄のないストロークは、パンスリップが窯にこすれる音に表れていました。
焼成を待つ間に、捏ね桶や発酵かごを掃除。乾いた小麦をこそいでふるいにかけ、塊はコンポストへ。弥栄窯には生活の隅々に至るまで「消えられる美しさ」が満ちています。
窯出し。一つづつ底を叩いて焼け具合を確認。楽器を奏でているような光軌さんとパンの対話。
あなたは焼けていますか?まだ焼かれたいですか?
全てのパンを焼き終えたのはお昼をまわった頃。修行先のリヨンのパン屋はフランスの法律で決められた8時間労働を守り、手ごねで1日200キロのパンを薪で焼いていたそうです。そのパンの美味しさに衝撃を受け、「やらないといけない気になった」光軌さんの労働時間も8時間。しかし「配達時間のことまで考えていなかった」という最後のお仕事に、白目になりながら向かいます。
その先に待つ、口福の瞬間を分かち合うために。
原田 美帆
与謝野町在住
インテリアコーディネーター・現代アートスタジオスタッフとして活躍し、2015年からは丹後・与謝野町に移住と共にデザインスタジオ「PARANOMAD(パラノマド)」を設立。織物は彫刻という独自の視点でカーテンを始めとしたテキスタイルを制作。また、マニアックな所まで的確にレポートするライターとしても活躍中。そんな彼女の美と食の記事は今後とても楽しみであります。
PARANOMAD