空は晴れ渡り、木々が芽吹き、爽やかな風が吹き抜ける新緑の丹後。
山間に藤の紫色が揺れています。
この藤から糸を取り出し、布を織る。
万葉の昔から日本人の身を包んできた「藤布」を現代に伝える織元「遊絲舎」小石原将夫さん、充保さんを訪ねました。
こんにちは、PARANOMADデザイナーの原田美帆です。初めて目にした藤布は、農作業や漁業で何十年も使い込まれた作業袋。ところどころ繕いが施された藤布は、大地の色合いを写し取ったようなグラデーションが広がり、その存在感は織物という概念を超えていました。Prologueでは藤布の物語をご紹介します。
生活の道具として使われていた藤布
古来より交易でもたらされた絹、戦後に発展した化繊、明治に輸入されたウール。今日ではたくさんの素材から衣服が作られていますが、江戸時代に木綿栽培が本格化するまで多くの人々が身につけていたのは「古代布」と呼ばれる植物からなる織物。藤、苧麻、葛、しな、芭蕉布などさまざまな材料から糸を作り、家族の衣服や日用品を拵える技術が国内各地に息づいていました。
木綿の普及や織物の工業化により藤布の技術も途絶えてしまったと思われていた昭和37年、京都府教育委員会による民俗調査が行われ、京丹後市袖志で海女の使っていた藤布製「つの袋」(海の幸を入れておく袋)が発見されます。その後、宮津市上世屋集落を中心に作り続けられていることが分かりました。急斜面に位置する集落は耕作地が小さく、日照時間は短く、冬は雪に閉じ込められる。厳しい自然条件の中で生き抜く女性たちによって、藤布は受け継がれていたのです。テレビ番組で偶然目にした将夫さんは家業の合間をぬって上世屋に通い、藤織り保存会と藤布振興会を立ち上げ、伝承活動へと奔走します。
2009年に開園した衣のまほろば「藤の郷」にて 遊絲舎代表小石原将夫さん
10数年が経ち仲間とともに商品開発に取り組みましたが、皆が思うようにはうまく行きませんでした。「これ以上、販売品の製作を続けるのは難しい。小石原さん、断ってきてよ」。上世屋出身のおばあちゃんに藤績みを断念することを伝えに行きますが…
「だめになったと言えなかった」。
これまで通り糸を績んでと頼み、帰路につきます。この時から、家業の織物と藤の融合という挑戦が始まりました。当初は「ボランティアの伝承活動から商売に利用と揶揄されることもあったし、メーカーが最終製品まで手がけることへ風当たりも強かった」けれど、「これまで家業をやり通してきた。いろんな思いもしてきた。だから藤は直接お客さまに届けたかった」。将夫さんの言葉には、作り手として譲れない信条が宿っていました。やがて一つ一つのご縁が人脈を繋げ、販売先は呉服屋や百貨店に広がり「丹後の藤布を全国に広めている」と評価されるように。
帯屋として洗練された製品を作ってきた感性、日夜織機を回してきた技術、そしておばあちゃん達に糸績みはもういいよと言えなかった優しさ。どれ一つ欠けても、遊絲舎の美しい帯は誕生しませんでした。
京袋帯「網代」 藤の野趣あふれる表情と意匠が美しい
袋帯「青のさざめき」 鮮やかな絹糸に織り込まれて
上世屋に通っていた頃、充保さんは小学生。藤績みをするおばあちゃんの家の庭で遊んでいた風景を覚えているそうです。庭に干した藤の前で撮影した家族写真のこと、川で作業する将夫さんの姿は覚えていないこと、作業をしながら成長と共にあった藤布のことを話してくださいました。
写真を撮った柿の木と昔からの田んぼの風景
藤の蔓が布になるまではいくつもの工程があります。藤を刈り取って中皮をはぎ、乾燥させる。水に漬けて柔らかくしてから木灰で炊き、川で不純物を洗い流す。ぬかを溶いたぬるま湯にくぐらせて陰干しした後、藤を細く割いて糸にする。言葉にすると数行ですが、一つひとつ膨大な時間と労力のかかる手作業を、昔ながらの方法で行なっています。
上世屋の資料には見知ったおばあちゃんの姿がありました
「一部には薬品を添加するような現代の方法も、それはそれでいいと思う。だけど父が大切にする方法で、本当に美しい藤布を織るのが遊絲舎」。充保さんの言葉には、将夫さんから受け継がれた信念が貫かれていました。
次回は藤布が生まれる過程をお届けします。
参考文献 「織物の原風景」長野五郎/ひろいのぶこ
写真提供 遊絲舎、前田涼介
原田 美帆
与謝野町在住
インテリアコーディネーター・現代アートスタジオスタッフとして活躍し、2015年からは丹後・与謝野町に移住と共にデザインスタジオ「PARANOMAD(パラノマド)」を設立。織物は彫刻という独自の視点でカーテンを始めとしたテキスタイルを制作。また、マニアックな所まで的確にレポートするライターとしても活躍中。そんな彼女の美と食の記事は今後とても楽しみであります。
PARANOMAD