さびた鉄板
艶めくパイソン
カーキ色のカモフラ…
大好きなものを詰め込んだ宝箱。
目を輝かせながら広げて見せてくれる横顔は、まるで少年のよう。
こんにちは、PARANOMADデザイナーの原田美帆です。じつは、これらは全て着物の柄なのです。独特の世界観で人々を惹きつける柴田織物2代目柴田祐史さんの考案した「他にはない」デザイン。反物を広げながら話す姿はカードゲームやメンコに夢中になる少年のようです。小説「羅生門」をテーマにした稲妻の走る羽織。お米農家がまとう稲穂柄の着尺と帯。雨音が楽しくなる蛙柄の着尺。祐史さんの手にかかれば、いろんな物語が「着物」へと変身します。
壁にかかる「羅生門」をテーマに制作した羽織
図案を描くグラフィックデザインと、織機の特徴や組織づかいを考えて織物を設計するテキスタイルデザイン。ふたつの要素が祐史さんの頭の中で混ざり合って、ペンタブレットを走らせます。「もともと絵は学んでいないから、筆で描くことはできないけれどイラストレーターは綺麗な線を引いてくれるし、フォトショップは色を塗ってくれる。いまでも絵が描けるとは思っていないんですよ」。見事に図案化された美しい曲線からは、想像できない答えが返ってきました。それでは、なぜ自ら図案を手がけるようになったのでしょうか。
パソコンに向かう柴田祐史さん
高校を卒業後に夜間大学の工学部に入り、バイトとバイク乗りに明け暮れた祐史さん。生来の機械好きで、就職先もメカニックとしての腕が磨けると電機会社の開発部を選びました。レーザーディスクやFAXの機械設計に携わり、充実した日々を送ります。「家を出て3年したら、話をしよう」という先代との約束のため家に帰ると、父親が病に侵されていると知らされました。余命わずか2年。27歳だった祐史さんは、家業を継ぐことを決めます。
当時の柴田織物は織機を持たず、出機と呼ばれる協力工場に糸や紋紙を届けて織りあがった製品の仕上げを行う生産管理の役割を担っていました。「50台を超える出機があり、家族経営でとても忙しかった」。しかし、先代の他界と織物産業の陰りが機場を襲います。その頃は一つの図案作成に何百万円もの費用をかけて何百反と生産するスタイルでしたが、市場全体の縮小や卸先に虐げられる出来事もあり「このままではダメだ。他にはない、自分が面白いと思う着物を作ってみよう」と思い至ります。これまで下絵を手がける絵師のもとに通った経験から、いつしか意匠に必要な構造を見抜いていました。紋紙屋とのやり取りからは、織機の拵えにあった柄の設計をインプットしていたのです。情報を分解整理して、カスタマイズして組み立ててしまう。絵は描けないと言いながら、デザインの要素を巧みに操って着物に落とし込む柴田スタイルが構築されていきました。そうして完成したのがパイソン柄の着物です。自社に織機も設置し、小ロットや特注対応にも強化。その腕に憧れた青年も弟子入りしました。
柴田祐史さんと弟子 関祥汰さん
鋭い視座は、丹後産地そのものの分析にも向けられます。「他の産地を訪れて、丹後産地が持つ影響力の大きさを知りました。国内最大の絹の産地であり、技術的にも優れている。なぜ生き残っているのか理由がわかれば自社製品にも自信が持てる。和装文化に支えられた歴史を知れば、その伝統を伝えることが価値に繋がると分かる」。ハリウッド映画や芸能界からのオーダーもありますが、着物を軸とする姿勢を貫いています。
「これは色数が多くて四重組織になってる。千八(センパチ)の拵えはフラットで繊細な織り上がりになるからこのデザインに向いていて…」。ひとつ質問をすれば、知識も技術も惜しげもなく教えてくれる祐史さん。尽きることのない織物への探究心が、次世代をも牽引していきます。
祐史さんを慕う学生からのアイデアを複雑な組織に織り上げた
原田 美帆 与謝野町在住
インテリアコーディネーター・現代アートスタジオスタッフとして活躍し、2015年からは丹後・与謝野町に移住と共にデザインスタジオ「PARANOMAD(パラノマド)」を設立。織物は彫刻という独自の視点でカーテンを始めとしたテキスタイルを制作。また、マニアックな所まで的確にレポートするライターとしても活躍中。そんな彼女の美と食の記事は今後とても楽しみであります。
PARANOMAD